P.カザルス 2 (1876.Dec.29~1973.Oct.22)
P.カザルスについて、さらにお話します。前回は「無伴奏チェロ組曲」の録音を中心に述べてみました。
今回は、主に晩年の指揮活動を取り上げてみます。
大戦中は、ナチの厳しい監視のもと軟禁状態の中で、世界に向けて平和のメッセージを送り続けました。ファシズムの崩壊により世界大戦は終焉しますが、カザルスの祖国スペインは、フランコ独裁政権が依然と存続することとなり、彼は故郷に戻ることがありませんでした。そして、1945年世界大戦後は、アメリカを含むフランコ政権を容認する国での演奏を拒否し、さらには故郷の状況を考慮し音楽活動から遠のいていました。そのような中1950年バッハ没後200年祭を契機に、戦時中カザルスと距離を置いていた音楽家を含め、カザルスを尊敬するル多数の音楽家が集い、プラード音楽祭が開催され、再びカザルスの音楽活動が平和のメッセージを掲げて再開するようになりました。
その後、各地でカザルス音楽祭を催し、さらに世界に平和を訴え続けることとなりました。そして、1956年(80歳)には、母の祖国であるプエルトリコに移住することになり、マルタ・モンタニュスと出会い翌年結婚します。カザルスのチェロの弟子で才能豊かなマルタは、60歳年下でしたが、あらゆる面で巨匠の手助けをすることを自身の務めと決心し、その多忙な中でチェロの演奏を棄て、カザルスの死まで約15年間連れ添うこととなりました。
1960年からのマールボロで音楽祭が、毎年6月下旬から8月にかけて開催さます。幸いなことにマールボロ音楽祭でカザルスが指揮した演奏が、ステレオ録音で数多く残されています。今回はその中から、いくつくか取り上げて紹介します。
J.S.バッハの管弦楽組曲全4曲とブランデンブルグ協奏曲全6曲、モーツァルトの後期交響曲6曲とセレナーデ第13番Kv.525「Eine kleine Nachtmusik」、ベートーヴェンの交響曲第1,2,4,6「田園」,7,8番、シューベルトの交響曲第5,7番「未完成」、メンデルスゾーン交響曲第4番「イタリア」、シューマン交響曲第2番、ハイドン交響曲第94番「驚愕」、第45番「告別」(これのみ1959年のプエルトリコカザルス音楽祭)。以上が今私の手元にあるものです。
これらはすべて音楽祭管弦楽団で、カザルスを慕う音楽家たちによって編成されたオーケストラです。どの曲の演奏も豊かな表現で音楽が伝わってくるものです。この中からバッハとモーツァルトの録音について述べてみたいと思います。
バッハの曲では、管弦楽組曲とブランデンブルグ協奏曲がそれぞれ全曲残されています。現在のバロック音楽の演奏は、ピリョード楽器の使用により18世紀のスタイルによるものも多く、現代楽器を使用してもかなりスリムな演奏が主流を成しています。
半世紀ほども前のカザルスの演奏スタイルは、昨今のものと異なるのは当然ですが、一音一音を大切に扱い、訴えてくるのがよく伝わってきます。
全4曲ともに1966年7月に演奏され4曲の管弦楽組曲は、すべてフランス風序曲で開始されますが、導入部の遅い部分は滑らかな音の流れが美しくまた壮麗に演奏されていて、それに続く主部はどれも対位法を中心とした楽曲ですが、生き生きとした音の構築によって、すばらしい序曲を聴かせてくれています。 又それぞれの舞曲においても躍動感のみなぎった演奏で、暖かさ・懐かしさを感じさせる親しみの持てる音楽です。特にフルート独奏を伴う有名な第2番は、出だしの音からして、『あれ?!』、と思わせる。 それは、この曲のロ短調の調性を暗く深刻な趣で響かせるのが一般的ですが、カザルスは違っています。 ことさらに構えず、何もなかったように演奏し始め、深い親近感・優しさ・暖かみを覚える。これは全曲に渡って響いています。
管弦楽組曲では、通奏低音としてチェンバロ等の鍵盤楽器は使用していません。そして、6曲のブランデンブルグ協奏曲は、1964年7月に第2番を除く5曲が、翌1965年7月に第2番が演奏されました。言うまでもなく、ブランデンブルグ協奏曲は、それぞれ異なった独奏楽器を伴った協奏曲で、とても興味深い作品です。 ここでもカザルスのアプローチは、管弦楽組曲と変わりませんが、通奏低音にチェンバロとピアノを用いています。チェンバロは、第2番、第3番、第6番に、ピアノを第1番と第4番に、そして言うまでもなく第5番は独奏楽器としてピアノを用いています。ピアノを弾いているのは、長年カザルスと共演しているルドルフ・ゼルキンで、チェンバロを受け持っているのが、R.ゼルキンの息子のピーター・ゼルキンです。(当時16歳〜17歳)第5番のトリオのピアノ独奏を除いては、チェンバロもピアノも控えめにつけられています。
しかしながら、第5番も含めてここでのピアノは、たとえすべて現代楽器であったとしても、今私たちの耳には、かなり違和感があります。そのようなこともあり、カザルスのブランデンブルグ協奏曲は、第3番、第6番がとてもすばらしく感じます。勿論ほかの曲もカザルスの歌が、演奏者を通して親しみ深く受け入れられます。
次にモーツァルトの後期交響曲いついて簡単に述べさせてもらいます。カザルスのこれらの演奏は、一般的に言うところの、モーツァルトの演奏スタイルとはかけ離れている言っていいと思います。彼の演奏は、ベートーヴェンの交響曲を演奏するのと同じ仕方で臨んでいる曲も見られます。しかし、生まれてくる音楽は、演奏者を通して共感できる素晴らしいモーツァルトです。
6曲ともすばらしいのですが、第3.9番変ホ長調で第1楽章の序奏のあと、低弦に現れる第1主題の歌は、他のどの演奏でも聴かれない素晴らしいカンタービレです。これほどまでにこの主題を歌い上げた演奏を私は知りません。
そのほか、「ト短調交響曲」、「ジュピタ−交響曲」も最上の音楽聴かせてくれます。カザルスのモーツァルトは、ほかでは得られない最上の音楽を聴かせてくれています。
最後に「鳥の歌」について記しておきます。カザルスは、晩年演奏会の最後に故郷の民謡「鳥の歌」をチェロ用に編曲して演奏していました。
1971年の国連デーの映像はNHKから放映されて忘れられないものです。
「生まれ故郷の民謡をひかせてもらいます。鳥の歌という曲です。カタロニアの小鳥たちは、青い空に飛び上がると、ピース、ピース、ピースと歌います。」と言って演奏し始めた。94歳を過ぎたカザルスの音は、枯れていたが平和の願い・故郷への思いが伝わってきた。
そしてもう一つこの上ない録音が残されている。1961年11月13日ホワイトハウスでの演奏会である。このホワイトハウスの演奏会に至る経緯を述べると大変長くなるが、ヒューマニズムの指導者としてのケネディ大統領を友人として信頼し世界平和の望みを託して、この演奏会を実行した。ピアノのM.ホルショフスキーとA.シュナイダーが共演し、メンデルスゾーン、クープラン、シューマンの作品を演奏し、最後に「鳥の歌」ひいた。これらはモノラール録音だが、84歳のカザルスのチェロはつややかに広間に響き渡り、この演奏に様々な思いを込めたカザルスの肉声も混じり、いっそう我々の胸に迫ってくる。ベトナム戦争の早期終結や世界平和の願いを約束したケネディ大統領は、2年後の1963年11月22日に暗殺され、カザルスとの約束を果たすことができなかった。(この映像は、米国からの衛生の最初の電波であった)カザルスもついに故国に帰ることなく1973年10月22日プエルトリコで亡くなるが、フランコの死後1979年にカザルスの遺体は、故郷のカタロニア・ヴェンドレルの墓地に埋葬された。
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