<第六回>2009.6.

第一回  クリスマス・オラトリオ (J.S.バッハ) 第七回   W.A.モーツァルトと旅 2
第二回  ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125 第八回   W.A.モーツァルトと旅 3
第三回  新日本フィルハーモニーのハイドン・プロジェクト 第九回   ヘンデルとオラトリオ
第四回  歌曲集「冬の旅」(F.シューベルト) 第十回   モーツァルトと短調の曲
第五回  オペラの演出について 第十一回  モーツァルトと長調の曲
第六回  W.A.モーツァルトと旅 1 第十二回  ベートーヴェン:後期弦楽四重奏曲


〔第1回〕


〔第2回〕


〔第3回〕


〔第4回〕


〔第5回〕


〔第6回〕



〔第7回〕


〔第8回〕


〔第9回〕


〔第10回〕


〔第11回〕


〔第12回〕


〔第13回〕


〔第14回〕


〔第15回〕


〔第16回〕


〔第17回〕


〔第18回〕



〔第19回〕


〔第20回〕


〔第21回〕


〔第22回〕


〔第23回〕


〔第24回〕
 

       W.A.モーツァルトと旅 1


 モーツァルトは、36年に満たない短い生涯であったが、その人生のおよそ三分の一を旅していた。旅と言っても今と違って18世紀の旅は、身の危険を伴い精神的にも肉体的にも大変な苦痛を伴うものであったことは、想像に難くない。
 現代床となり、情報の豊かな時代ではないので、旅することによって見聞を広めてゆかねばならなかった。殊に学問・芸術をする者にとって旅することは、極めて重要かつ必要な事であった。
 しかし、モーツァルトの幼少期の旅は、ゲーテなどのそれとは幾分違っていた。ただひたすら父に連れられて音楽の吸収に費やされた。異郷の地で触れる新しい音楽は、全て彼の栄養となって実を結んでいくことなる。

 ここでモーツァルトの旅程を一覧表に示します。

     期  間                                         同伴者                   行き先

 ◇1762.  1. 12 1762.  2. 初め                   父・姉                  ミュンヘン

 1762.  9. 18 1763.  1. 15                      一家4人              第1回ヴィーン旅行

  1763.  6.  9 1766. 11. 29                       一家4人              (西方旅行)

                 ミュンヘン アウグスブルグ マンハイム フランクフルト

                 ブリュッセル パリ ロンドン ハーグ アムステルダム

                 ジュネーブ チューリヒ

  1767.  9. 11 1769.  1.  5                       一家4人              第2回ヴィーン旅行

 ◇1769. 12. 13 1771.  3. 28                                                 第1回イタリア旅行

 ◇1771.  8. 13 1771. 12. 15                                                 第2回イタリア旅行

 1772. 10. 24 1773.  3. 13                                                第3回イタリア旅行

 1773.  7. 14 1773.  9. 26                                                第3回ヴィーン旅行

 1774. 12.  6 1775.  3.  7                                                ミュンヘン

 1777.  9. 23 1779.  1. 15                      母                       マンハイム・パリ旅行

 1780. 11.  5. 1781.  3. 16                       (一人)                    ミュンヘン ヴィーン


  ヴィーン定住(1781.  3. 16 1791. 12.  5

    コンスタンツェと結婚(1782. 8. 4  シュテファン大聖堂)


 1783.  7   1783. 12 初め                  コンスタンツェ     ザルツブルグ 

 ◇1787.  1.  8 1787.  2. 12                        コンスタンツェ     プラハ

 1787. 10.  1 1787. 11. 16                      コンスタンツェ     プラハ

  1789.  4.  8 1789.  6.  4                       リヒノフスキー     ポツダム・ベルリン

 1790.  9. 23 1790. 11. 10                     ホーファー             フランクフルト

 1791.  8. 25 1791.  9. 中旬   コンスタンツェ・ジュスマイアー  プラハ

 最初の旅行は、6歳にもならない幼い時である。父レオポルトと姉のマリア・アンナ(愛称ナンネル)とミュンヘンへと旅だった。ミュンヘンはザルツブルグから当時は二日ほどで行ける比較的近い音楽の盛んな都市であった。
この旅行についてほとんど記録が残っていないが、姉のナンネルが弟の死後に書いた回想で「バイエルン選定侯マクシミリアン三世のもとで御前演奏をした」と記している。この後
1781年ヴィーン定住までほとんどザルツブルグに長く留まることない旅の連続であった。中でも1763年、モーツァルト7歳の時の西方旅行と呼ばれる3年半近くに及ぶ長い旅行は際だっている。
再びザルツブルグに戻った時モーツァルトはすでに
10歳と7ヶ月になっていた。そして父と行った3度のイタリア旅行も大きな収穫のあった旅行と思われる。
これらの旅路にあっては様々のエピソードが、ザルツブルグの家族や知人への手紙等のこと細かくやりとりが残されている。
それらについて少しずつたどってゆこうと思います。

 最初の旅行からおよそ半年後の918日にザルツブルグを発って、106日ヴィーンに到着した。今では列車で3時間半くらいだが当時は3週間近くの旅程である。ヴィーンでは多くの貴族の邸宅で音楽会が催されヴォルフガングの神童はまたたく間に評判となった。1013日には、シェーンブルン宮殿でフランツ一世、マリア・テレジア皇妃の前で御前演奏を行っている。
「この上なく厚遇され、ヴォルフガングもはしゃいで皇妃の膝の上に飛び乗り、抱きついたりキスをした」「床で滑って転んだヴォルフガングを当時
6歳だった皇女マリー・アントワネットが助け起こした時、その親切さに礼を言い、大きくなったら結婚してあげると言った」などの詳細な手紙をザルツブルグに送っている。また、当時のヴィーン宮廷作曲家であったヴァーゲンザイルの作品を演奏するにあたって、ヴォルフガングは「ヴァーゲンザイルさんはお見えでないですか?」と言い、彼が現れると「あなたの協奏曲を弾きますから、僕のために譜めくりをしてください」というのも有名なエピソードである。

 さすがの幼いヴォルフガングも旅の疲れか、シェーンブルン宮殿での何回かの演奏会の後10日ほど寝込んだり、帰路のリンツでも風邪をひいてしまった。幸い回復し元気になったヴォルフガング一行は、ブラティスラヴァ等に滞在し一旦ヴィーンに戻り17631月にザルツブルグに無事帰着した。有名な油彩画「大礼服を着たモーツァルト」の礼服は、このときにマリア・テレジア皇妃から贈られたものである。

 4ヶ月のヴィーン旅行から半年もしないうちに次の35ヶ月にも及ぶ「西方旅行」に出発する。これについては、紙面の都合で次回に譲ります。

ンケン 音楽顧問
伊賀美 哲[いがみ さとる]
 
国立音楽大学声楽科卒業。波多野靖祐、飯山恵己子諸氏に師事。現在、田口宗明氏に師事。指揮法を故櫻井将喜氏に師事。1982年、第7回ウイーン国際夏季音楽ゼミナールでE.ヴェルバ、H.ツァデック両 教授の指導を受ける。1985年フィンランドのルオコラーティ夏季リート講座で、W.モーア、C.カーリー両教授の指導を受け、その後W・モーア教授にウ イーン、東京で指導を受ける。1986年から毎年、リートリサイタルを開催、シューベルトの歌曲集「冬の旅」、「美しい水車小屋の娘」、「白鳥の歌」、 シューマンの歌曲集「詩人の恋」等を歌う。千葉混声合唱団では、ヘンデル「メサイア」、モーツアルト「レクイエム」、J.S.バッハ「ミサ曲ロ短調」「マタイ受難曲」などを指揮する。現在、千葉混声合唱団、かつらぎフィルハーモニー指揮者。