<第七回>2009.7. |
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W.A.モーツァルトと旅 2
前回第1回ヴィーン旅行までお話しました。今回はその5ヶ月後に出発した3年5ヶ月に及ぶ長期の旅行、所謂「西方旅行」から始めます。
今回の長旅は一家4人とS.ヴィンターという従僕が同行した5人の旅となった。 最初の訪問地はミュンヘンで、前回と同じく選定侯の前で演奏をした。そして父レオポルトの故郷アウグスブルグに立ち寄り、数回の演奏会をもった。 ここに登場したハーゲナウアを紹介しておきましょう。ロレンツ・ハーゲナウアはザルツブルグの豪商で、モーツァルトの生家として現在博物館として公開されている、ザルツブルグのゲトライデ・ガッセ(通り)9番地にある有名なの黄色い建物の家主あった。、モーツァルト一家は当時その5階を借りていた。ヴォルフガングを連れたレオポルトの旅の一部始終が、彼の家主のハーゲナウアに報告されていたおかげで、今日幼いモーツァルトの旅の日々をかなり知ることができる。 さて、一家は5ヶ月ほど滞在したパリを旅立つことになるが、当初はザルツブルグに帰郷ということだったが、周りの強い勧めもありロンドンへと向かうことになった。 1年3ヶ月に及んだロンドン滞在は、多くのものをモーツァルトに与えた。一家は再び海峡を渡り、1775年7月24日オランダのハーグに向かった。途中レオポルトとヴォルフガングが病気になり到着予定はかなり遅くなり9月10日にようやくハーグに着いた。 西方大旅行から10ヶ月も経たないうちに、第2回ヴィーン旅行に出立する。これも1年4ヶ月と比較的長い旅となった。これはヴィーン到着後、天然痘が流行してヴォルフガングとナンネルが相次いでかかってしまったためである。ヴォルフガングはかなりの重傷で、何日も生死の間をさまよったと言われている。良い治療の結果一命をとりとめた。 病気回復の後、最初のオペラ「ラ・フィンタ・センプリーチェ」(偽りの馬鹿娘)が作曲された。然しこのヴォルフガング最初のオペラは、彼の才能を妬むヴィーンの音楽家達の妨害に遭い、上演されなかった。当時のヴォルフガングの作品を父親が作曲したものではないかという噂を流したりしていて12歳の子供がオペラの作曲などという憶測を生ませてしまったらしい。 ザルツブルグに戻って一年も経たぬうちに、今度は父と共に行く3度のイタリア旅行が始まる。これ以降は次回にいたします。
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オンケン 音楽顧問 伊賀美 哲[いがみ さとる] 国立音楽大学声楽科卒業。波多野靖祐、飯山恵己子諸氏に師事。現在、田口宗明氏に師事。指揮法を故櫻井将喜氏に師事。1982年、第7回ウイーン国際夏季音楽ゼミナールでE.ヴェルバ、H.ツァデック両 教授の指導を受ける。1985年フィンランドのルオコラーティ夏季リート講座で、W.モーア、C.カーリー両教授の指導を受け、その後W・モーア教授にウ イーン、東京で指導を受ける。1986年から毎年、リートリサイタルを開催、シューベルトの歌曲集「冬の旅」、「美しい水車小屋の娘」、「白鳥の歌」、 シューマンの歌曲集「詩人の恋」等を歌う。千葉混声合唱団では、ヘンデル「メサイア」、モーツアルト「レクイエム」、J.S.バッハ「ミサ曲ロ短調」「マタイ受難曲」などを指揮する。現在、千葉混声合唱団、かつらぎフィルハーモニー指揮者。 |